新潟市内で引退会見→直後の日本ハム戦、ボロ負けの中で代打出場
プロ野球の日本ハムと巨人で通算16年間プレーし、今季まで3年間は「2軍専門球団」のオイシックスに所属した陽岱鋼外野手が1日、新潟市内のホテルで現役引退会見を行った。台湾から日本球界を目指す選手が増える中、陽が送ったアドバイスとは。直後にハードオフエコスタジアム新潟で行われた日本ハム戦でベンチ入りした際の言動に、陽が大事にしてきたものが見えた。
2-17と大敗した試合の8回2死、オイシックスの武田勝監督は「代打・陽岱鋼」を告げた。引退表明後、初の打席だ。ファンの声援を背に右打席に立ったが、打球は三塁方向へのゴロ。ただ全力疾走に焦ったのか三塁手がファンブルし、失策で一塁に生きた。どんな逆境に置かれても、やることは変わらない。現役生活を終えるその時まで、守り通したいことがあった。
「打ったら走ること。それが野球なんだから当たり前です。いくら歳をとっても、当たり前にやらなきゃいけない。走れば何かが起こるんですよ」
現役引退を発表し、会見まで終えたことで、心境の変化も「ありますよ」と口にする。一方で、変わってはいけない部分も心得ている。最初に入団した日本ハムで叩き込まれた「最後まで諦めない」精神を最後まで体現してみせる。この試合、オイシックスは序盤から失点を重ね、5回表を終えて0-12。会見から約6時間、ここで陽は自ら円陣の真ん中に立った。
「あれだけ点数を取られても、やらなきゃいけないことがある。今日しか来られないお客さんだっているんですよ。諦めないのは当たり前。ファンの皆さんだって知ってます。まず1点取る、1本打つことが明日のチームと自分のためになるんです」
言葉にしてみれば、当たり前のことかもしれない。ただ高校入学以来、日本で四半世紀近くを過ごした陽は、これを日本語で選手たちに伝えるのだ。その効用は計り知れない。「チームメートとぶつかることもあるかもしれない。でもそこで、心と心のつながりがないとダメなんです」。忘れがちだが、日本も陽にとっては異国なのだ。重ねてきた成功のためのノウハウを、後輩に授ける。
異国で生き抜くための「ツール」後輩たちにも「勉強した方が」
引退会見で陽は、台湾から日本球界入りした後輩たちへのアドバイスを求められると「日本の文化を知った方がいいと思うんです。違う部分もある。他の国でプレーするとき、その国の文化と言葉を少しでもいいから勉強した方がプラスになる」と口にした。
この言葉で、思い出したシーンがある。2024年の開幕直後、日本ハムとの試合で千葉・鎌ケ谷の球場を訪れた時のことだ。この年、台湾の高校を卒業して日本ハム入りした孫易磊投手が、緊張の面持ちでオイシックス側のベンチ裏にやってきた。記者が「易磊が挨拶したいって来ているよ」と呼びに行くと、ロッカーから出てきた陽は孫易磊に日本語で「お疲れ!」と話しかけたのだ。
きょとんとする孫易磊。陽もここで我に返ったのか「あ、台湾語でいいのか」と苦笑いし、言葉を切り替えて会話を進めた。日本にいる時、陽の頭の中は完全に日本語に切り替わっているのだなと思わされた。
「僕は、言葉を切り替えるのが遅いんです。どうしても日本語が入ってくるし、そっちの方がスムーズなんですよ。だから台湾の後輩たちにも、日本語を勉強していますと言われたらうれしいですよね」
陽の野球人生にとって、日本語はどんな意味があったのかと聞いたことがある。「だって、必死でしたよ。高校の時は先輩や監督が何を言っているのかわからなければ怒られたし……」。最初は目標に向かって、がむしゃらに突っ走る中で必要不可欠なツールだった。
さらに、プロとして年輪を重ねた後で、その重要性に再度気付かされたという。「海外でプレーする上で一番大事なのは言葉なんですよ。その国の言葉を覚えようとすること。アメリカに行った時、1人で飛び込んで必死に英語を使いました。そうすると、まわりの選手が認めてくれるんです」。最初はよそよそしかった選手の態度が変わった。陽は「こいつ、クレイジーだなって言われるようになった」と愉快そうに振り返る。たった1人の挑戦の中で、何よりの賛辞だった。
指導者になりたいという夢はあるが、今後は日本と台湾のどちらに拠点を置くかも含めて未定だという。頭の中にあるのは、シーズンが終わる9月末まで、全力で駆け抜けることだけ。「やり切ったというより『良く頑張ったな、自分』とは思います。よく折れなかったなと。だから最後まで全力でやらないと。やり切ります」。日本に馴染み、壁を越えた。記録より記憶に残るスター陽岱鋼の物語が、最終章を迎える。
(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)












